2007年03月04日

トキソプラズマと妊婦さん

ある日、動物病院のドアが開いたかと思うと、
若奥さん、といった感じの女性が、一人で病院の中に入って来ました。
何の動物かと思って見てみますが、
どうやら動物は連れて来てはいないようです。

「今日はどうされましたか?」
とりあえず尋ねてみると、
「実は、猫のことで相談したいのですが・・」
とのことです。

どうやら、夫婦で猫を飼っていたところ、
自身が妊娠したため、いろいろ本を読んでいたら、
トキソプラズマのことを知り、それで心配になって、
まずは動物病院に相談してみようと思ったようです。

とは言っても、猫を連れて来ている訳ではないので、
ほんとに相談だけのようですが、
妊婦さんにとっては、トキソプラズマのことは、
誰しも一度は心配になることです。
とりあえず、話を聞いて相談に乗ってあげることにしました。
幸い、病院内は、もうすぐ昼の休みにさしかかる前で、
診察にも待合室にも誰もいない状態でした。

トキソプラズマは、猫科の動物を終宿主とする、単細胞の寄生虫です。
すべての温血動物に感染はしますが、猫科以外の動物では、
途中で成長を止め、オーシスト(卵の様なもの)を出すまでには至りません。
 
終宿主である猫から排出されたオーシストは、環境中に落ち、
それを人が飲み込むと、人間にうつります。

猫科以外の動物の口に入った場合、
筋肉内などで急速に増殖し(タキゾイト)、
休眠状態になります(ブラディゾイト)。
ブラディゾイト、タキゾイトの含まれる肉を食べた場合、
そこからも人間に感染することになります。

全ほ乳類に感染しますので、理論的には、
すべての肉類において、感染の可能性があると言えばありますが、
一番感染を気をつけないと行けないのは、何と言っても豚肉です。

ただ、豚は終宿主ではないため、豚の糞にはオーシストは含まれません。
豚は、中間宿主と言って、他の動物にトキソプラズマを媒介しうる存在です。
豚への感染ルートは、猫の糞を通じての感染の他、
ネズミなどの捕食、そして、生肉の摂食です。

豚肉はよく熱を通して食べろ、
とよく言われる原因のひとつはここにあります。

猫は終宿主、豚は中間宿主です。
したがって、一番厄介な組み合わせとなるのは、
豚舍で猫を飼っている場合です
(町中では、まずそんなシチュエーションはないでしょうが)。

妊婦さんがオーシストやブラディゾイト、タキゾイトを摂食した場合、
トキソプラズマをうつされることになります。
感染源として、特に怖いのは、オーシストを含む猫の糞と、
ブラディゾイト、タキゾイトを含む豚の生肉です。
まれには、オーシストを運ぶハエやゴキブリも気をつけるべきとされています。

では、猫の糞は、常に怖いものか、
というと、そうでもありません。

確かに、妊婦さんにとって、
トキソプラズマは胎児の奇形や流産を起こす可能性がある、
ということにおいて、恐ろしい病気ではあります。

ただ、トキソプラズマが猫の糞を通じて感染するには、
二つの条件があります。
それは、

1.猫が初感染である
2.妊婦さんが初感染である

ということです。
つまり、猫が今までにトキソプラズマに感染している場合、
トキソプラズマが入って来たとしても、
抗体価(免疫力)が高くなっているため、
猫はオーシストを出すことはありません。

オーシストの排出が起きるのは、
今までに一度も感染したことのない猫に感染が起きた場合のみです。
それも、オーシストを出すのは、
感染して3週間の潜伏期間を経た後の、1~3週間の期間のみです。
それ以後は、抗体価が高くなることにより、腸での増殖は抑えられ、
オーシストは出さなくなります。

そして、妊婦さんの側も、それまでにトキソプラズマに感染していて、
抗体価がすでに高くなっていたなら、体に入って来たとしても、
悪さをすることはありません。

長ったらしくなりましたが、以上のことを総合すると、
危険なのは、

1.妊婦さんの抗体価が陰性で、
2.猫の抗体価が陰性

の場合だけです。
この組み合わせの場合、もし猫がトキソプラズマに感染した場合、
オーシストを出す可能性があり、
それを抗体価の低い妊婦さんが口にすると、危ない、ということになります。

したがって、猫からのトキソプラズマが心配な場合、まずするべきは、

妊婦さん自身の血液検査をして、抗体価を調べる
ということです。

抗体価を調べた結果、「陽性」であれば、
とりあえずは胸を撫で下ろしていい、ということになります。
普通、陰性であれば喜んでしまいそうなものですが、
そうでないところが、トキソプラズマのややこしいところです。
妊婦さんが陽性であれば、猫の陽性・陰性は、
通常あまり問題にはなりません
(妊婦さんが、エイズもしくは免疫抑制状態であれば別です)。

では、陽性の場合、それまでにどこから移されていたのか、
ということになりますが、実際にはよくわからないのでしょうが、
猫の糞からハエ・ゴキブリを介して、もしくは、豚肉などの生肉を通じて、
トキソプラズマをいつの間にか口にし、
いつの間にか抗体価が上がっていた、ということだろうと思います
(エビデンスはありませんが)。

妊婦さんにとっても、実際には、猫の糞よりも、
生の豚肉の方が気をつけるべきだ、とも言われているようです。

ただ、新生児に対しては、
トキソプラズマが感染して症状を起こすこともあるので、
猫の糞の扱いには一応注意しておいた方がいいと思います。

しかしながら、猫も特に外に出す訳でもなく、
ネズミを捕らせる訳でもなく、豚肉を食べさせたりする訳でもなければ、
猫に新しくトキソプラズマが感染するリスク、というものも、
そう高くはないと思います(あとはハエくらいでしょうか)。

それでも心配だったら、猫の血液検査をして、
症状もなく、抗体価が陽性であれば、まずは心配無しです。

以上のことを、30分くらいかけて説明すると、
飼い主さんはとりあえず納得してくれたようで、
「ありがとうございます。
 まずは、血液検査を受けて来ますね。」
と言って、帰っていきました。

弁護士だったら、30分くらい相談に乗れば、
5000円くらい相談料をもらうところですが、
うちの病院では、今のところ(たぶん今後も)、
飼い主さんの相談に乗るのは、ボランティアです。

世の中には、妊娠したら、猫を恐れるようになり、
神経質になって猫を手放す、という人も、
中にはいるようです。
猫と飼い主さんの幸せ作りに貢献した、
ということで、今回は満足しておくとしましょう。

テレビでトキソプラズマのことが放送されたりすると、
猫が必要以上に怖がられたりするのが心配です。
早合点で、罪のない猫にとばっちりをかけないよう、
世の人たちに、冷静に対処するよう、何とか願いたいところです。

※人間での症状について、僕が述べるのは出しゃばりすぎなので、
 ここでは、疫学的なことを中心に書くにとどめておきます。
 ただ、妊婦さんと、新生児で、特に注意が必要とされています。

※動物と飼い主さんの設定と描写には、修正を加えています。



転載元: どうぶつ病院診療日記